高熱隧道
 資材運搬には黒部専用鉄道(現黒部峡谷鉄道)のトロッコ電車が使用されることになっていたが、欅平より上流は河川勾配24分の1、標高差250 mと非常に急峻なためにトロッコ電車の力では上ることができなかった。このため、欅平に高さ200 mの縦坑を掘削して内部にトロッコ運搬用のエレベーターを設置し、仙人谷まで隧道を掘削していくこととなった。
 建設工事は仙人谷 - 阿曽原の第一工区、阿曽原 - 志合谷の第二工区、志合谷 - 欅平の第三工区に分けられ、第二・第三工区では比較的順調に工事が進捗したが、第一工区では阿曽原から仙人谷までの本坑工事を開始した1937年(昭和 12年)頃から岩盤温度が上昇し始めた。当初は摂氏65度程度であったが、翌年の7月には同100度の大台を突破した。それに伴い、坑内の気温も急激に上 昇していったため、作業員の体に黒部川の冷水をホースでかけたり、坑内を冷却する散水装置を設置するなどして作業を続けたが、文字通り「焼け石に水」状態 で、熱中症で 次々と作業員が倒れた。しかし、国家総動員法が発令されていた当時、軍需物資製造のための電源開発は至上命令だったために人海戦術で突破するしかなく、当時の労働者の平均月収の10倍以上に当たる2時間5円、日当10円という破格の給金を設定して作業員が駆り集められた。
事故
 1938年(昭和13年)8月23日、切端でダイナマイトの装填作業が行われていた最中に、地熱でダイナマイトが自然発火する暴発事故が2箇所同時に発生し、装填作業を行っていた作業員8名が死亡、6名が重傷を負った。事故が発生した当時の岩盤温度は摂氏120度にも達しており、事態を重く見た富山県警から工事中止命令が出されるも、電源開発が国策であることと、日本電力が社運を賭けていたために工事は続行された。岩盤からの熱伝導を防ぐためにダイナマイトにはエボナイト、ボール紙、割り竹などが被せられるなどの工夫が凝らされるが暴発事故はその後も相次ぎ、多くの人命が失われることとなった。また、水平歩道では資材運搬を行う歩荷の転落事故が日常的に発生している状態であった。
雪崩
 黒部峡谷は日本でも有数の雪崩発 生地帯であり、越冬作業は不可能と言われてきたが、当時の情勢は冬季の作業休止を許さず、阿曽原谷や志合谷などに作業員が宿泊する飯場が設置された。これ らの宿泊施設には当時最新の雪崩防止対策が施されていた。しかし、1938年12月27日午前3時30分頃、志合谷で大規模な泡雪崩が 発生し、直撃を受けた飯場(1・2階鉄筋コンクリート、3・4階木造)の木造部分が峡谷の対岸まで600 m余りも吹き飛ばされ、84名の死者(うち、47名は遺体を収容できなかった)を出す大惨事となる。なお、吹き飛ばされた部分が発見されたのは事故から2 か月以上経ってからであった。隧道が貫通した後の1940年(昭和15年)1月9日にも阿曽原谷で泡雪崩が宿舎を直撃し、直後に発生した火災などによって 死者26名、重軽傷者37名を出した。
無謀な工事
 岩盤温度が摂氏165度にも達する高温地帯を掘削し、トンネルを完成させた事例は世界でも類を見ず、様々な教訓や技術指針がこの難工事によって得られた。
 他方、国策の名の下に強行された工事の代償はあまりにも大きかった。特に「高熱隧道」工事での犠牲者は、雪崩の犠牲者も含めると全工区の犠牲者300人余りのうち半数以上を占めている。これは、同時期に完成した丹那トンネル工事の犠牲者を大きく上回っている。
 工事用に掘削されたトンネルは、現在関西電力黒部専用鉄道として使用されており、犠牲者は宇奈月町内山地区に葬られている。